とうふ、おいしいね。

世間の荒波でサーフィンできるようになりたい。

やさしいココロの壊し方(1)最初の記憶

f:id:sakutan3:20151222102851j:plainまたシリーズものになってしまいますが、おつきあいください。
(気が向いたらあれこれ書くスタンス)

誰でも心に傷を負う経験をそれこそ大小たくさんしてきていると思います。
わたしもありきたりな内容かもしれませんが、心に傷を負う経験を沢山してきました。
アレルギー反応もそうですが、人にはそれぞれ器があって、その器からこぼれてしまうとあっという間に器は壊れます。溜まってしまった器は減らすことは難しく、なるべく溜まらないように溢れないように気を付けるしかないんですね。

でも、時の運っていうのはあるもので。

自分が子供の頃、勉強は割と出来る方だった。
小学生で勉強が出来ないっていうのもアレですが、幼稚園で相当勉強をした(国語・算数・英語)ので出来たっていう話ですが。

我が家は特段特別な環境ではなく、ごくごく普通の家庭。
ちょっと違うのは祖母・母親共に信心深かった事でしょうか。

また、その思想はいまだに相容れないですが大体こんな感じ。

例えば、
テストで100点を取る→私たちの信心のおかげ
テストで悪い点を取る→お前が勉強しないのが悪い

良いことは自分たちが信心しているおかげ。
悪いことは私の努力が足らないからあるいは信心が足らないから。

こんなことが続いて自尊心を打ち砕かれて苦しくなり、私は宗教が大嫌いになりました。
個人が何を信心しようと構わないが、自分をまきこむのは止めて欲しいとお願いしました。毎朝の読経に付き合わされるのも、帰宅後に毎日手を合わせて一日の報告をするのも嫌だと伝えました。

顔色がすっと変わるのを見てしまったと思いました。
翌日からあからさまな無視が始まりました。
大人げないと思いましたし、自分ももっと伝え方があったと思います。
子供ながらに精一杯伝えたつもりでしたが逆鱗に触れてしまったのでしょう。
自分の心の器にひびが入るのには十分な案件でした。

それから、体調が悪くなると体に極端に力が入らなくなりました。
当時はうつ病だとかいう病名はなく、単に怠けているだけ・精神がたるんでいるからと言われ、病気扱いにしようものなら周りからあの家の子供はかたわだの障害だのと言われかねないため病院へは連れて行かれませんでしたが、自分の体が「なんかおかしい」というのは分かりました。
体の不調を訴え病院に連れて行ってほしいと頼むと、「あっそ。自分のお金で行ってね。保険証は貸さないから。」と言われました。多分、仮病だと思っていたのでしょう。

そのうちに少しずつ態度が緩和され、私も少しずつ体調不良になることがなくなっていきました。これが後々メンタルに響いてくるとは、幼い頭では理解しきれていませんでした。

わたしは、これまで学校で起きた出来事を嬉々として話していましたが、あの日以来うかつに話すと何を言われるか分からないという恐怖から「今日も一日楽しかった」とだけ伝えるようになりました。
それは大人になった今でも同じで、現在結構いい歳なので普通に話は出来るようになりましたがうっかり当時を振り返ると思考が停止してしまったりします。


今はそこそこ良好な関係です!