とうふ、おいしいね。

世間の荒波でサーフィンできるようになりたい。

自分の命を差し置いてまで大事な用事ってあるのかな(2)

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自分の命を差し置いてまで大事な用事ってあるのかな(1) - sakutan3’s blog

 

夫ががん。

生活も立ち行かなくなってきたところに夫が末期がん。

私は夢でも見ているんだろうか。

 

とにかくかき集められるだけお金をかき集める。
前払いで仕事も請けて工面する。
足りない。全然足りない。
検査だけでも諭吉がぽんぽん飛んでいく。
義父母からは遠まわしに責められる。
病院からは「誰のせいでもない」といわれるが、嫁という立場はそんなものなのだろう。「家族なんだから」という台詞には「家族にしてやったんだから恩を忘れるな」と同義だと痛感した。

そうこうしているうちに、できるだけ延命してもらえるように治療をしてもらえる病院への入院が決まる。
遠い地へ旅立つ夫。
私たちはいつもおいてけぼりだ。
自分の命だもの、最優先に守って当たり前なのだけど。

治療開始からしばらくしてやっとお金を工面して会いに行く。
薬によってボロボロになった状態で悲痛に泣き叫ぶ姿を見た。
引っ越そう。そばにいよう。ここまできたら義父母に迷惑がかかっても家族揃っていたほうがいいだろうと今考えれば脳内お花畑状態で遠い地へ引っ越しを決意し、実母に手伝ってもらいつつ、友人にはもう最後の別れになるかもしれないと泣かれ、きつくなったらすぐに戻ってきなさいと念を押され旅立った。

遠い地では、治療に七転八倒しながらも家族で支えるという事でとてもいいバランスが保てたと思う。少なくとも私はそう思っていた。
こんな状況だけれど幸せだと思っていた。
出来るだけ長くこの幸せな生活が続けられますように、進行しませんように、寛解しますようにと毎日祈った。お金を切り詰め、希望があれば色々なところに連れて行った。
笑っていてほしい、できるだけ長く一緒にいてほしい、残していかないで欲しいと。

治療の結果は進行は遅くなったものの、消えたわけではない。
手術をしても全て切り取るのは不可能な状態。
分子標的治療薬も効かない。
ないないづくし。

主治医と話し合いの結果、別の病院へ行くことになった。
このころから焦りが出ていたと思う。
何を話すにもハイな状態と鬱な状態が間をおかずにやってくる。
躁鬱を昔患っていたと聞いたが、まさにその状態になっていた。

結果的に、夫はまた別の病院へと転院していった。
またもや私たちはおいてけぼりとなった。
そんな精神状態から仕事もおぼつかなくなってきた。
とてもじゃないけど生活していけるような状態じゃなかったと思う。
娘のために積み立てていたお金を崩した。
死にたい。そこで初めて考えた。

おたふくかぜに罹った。
子供は予防接種を受けていたため罹らなかった。
子供がせっせと私の看病をしてくれていた。
寝ている私のそばで無理しなくていいのよ。ママには笑っていて欲しいの。
といいながら頭を撫でてくれていた。私号泣。
運よく仕事で流れに乗ったところで夫は実家へと戻った。
腰を据えて最終的な治療をするためだ。
義父からももうフラフラするなと釘を刺されたらしい。

俺、本当に死ぬの?いやだよ、家族全員揃っていたいと言われた。
持っているもの全て処分して実家へ入れという事だった。
自分の友人たちは義実家に入ることで全て離婚していた。
そこで口をそろえて「どういう事になっても実家に入るのはダメだ。本当にサンドバッグになるだけだ」と言われた。
自分自身もそれで失敗している事を思い出し、それだけはできないと断った。
もうこの時点で自分の実家へ戻るべきだったんだろうかとIF。

 

できるだけ安い家賃で仕事もしつつ義実家からさほど遠くない場所で家族みんなで過ごそうと言われてまた引っ越しをした。
ふたを開けてみたら、とても払いきれる家賃ではないセキュリティが頑丈なマンションで義母と夫ふたりでニコニコしながら出迎えてくれた。
何故かとても違和感を感じた。

住めば都、慣れればきっと幸せだろうと能天気に考えていた。
この辺りから怒涛のごとく義実家・夫・私の関係が崩れ始めていきます。

 

(まだ続くんじゃよ)